#0007 イザベル・コヘット監督『死ぬまでにしたい10のこと』

終わりは始まり


死ぬまでにしたい10のこと [DVD]
死ぬまでにしたい10のこと』(2002年)
イザベル・コヘット監督/ペドロ・アルモドバル=エグゼクティブプロデューサー


ちょっと気になっていて、映画館では見損ねたこの映画。
DVDで見てみました。


主人公の女性は、
母親の住む実家の敷地内のトレーラーハウスで
失業中のパートナーと子供2人で
幸せに暮らしている。
と、突然、体調が悪くなり病院に行ってみると
ガンで余命数ヶ月を宣告され。


死ぬまでにしたい10のこと」を
夜のカフェテリアでノートに記すわけです。
酒とたばこを満喫する、思っていることは口に出す、
娘たちに毎日“愛してる”と言う、爪とヘアスタイルを変える、
娘たちが18歳になるまで毎年誕生日にメッセージを届ける
(止めた車の中で一人、カセットレコーダーにメッセージを吹き込むわけです。
「あなたはもう17歳ね、おめでとう。」とか…)
娘たちの気に入る新しい母親を捜す、家族で海に行く、
そして、夫以外の男性と付き合ってみる、
(夫以外の)男性を自分に夢中にさせる、
刑務所にいる父親に会う…。


長い間会っていない父親に会ったり、
コインランドリーで偶然出会った男性と
付き合ったり、近所に越してきたいい感じの女性を
家に招いて夫となにげなく引き合わせたりするわけですが、
登場人物がみんな、本当にいい人たちばかりなんですよ。
コインランドリーの男性は、恋人に去られて
そのショックを引きずっている誠実そうな人物で、
父親は、過去を真剣に悔いていて、
さらに病院でガンを宣告する医者は、
“死”を宣告することの重圧に耐えられず
主人公の目を見ないですむように、あえて
ひとけのなくなった待合室で隣の椅子にならんで座って宣告したり。
それだけに、切なさが増していくわけです。




それにしても、考え込んでしまいました。
自分が「死にますよ」ってときに、
どんな行動をとるだろうか、と。
周りを省みず、自分のやりたいことをやる。
あるいは、残される人々の幸せを考える。


この世に自分が生きた印を何かを残したい、か。
例えば、何か自分が持っている思いや技術を
だれかに伝えて、死ぬ。


でも、「残す」ことに何の意味があるのか?
「残した」ものを、死んでしまった自分が
見ることは出来ないのに。
死後のことに希望を繋いでいるかのようでいて、
実は単に死ぬまでの時間で
「何かを残した」という充実感を得たいのか。
そう思ってしまうわけです。


それならば、自分がしたいことをして
死ぬというのはどうだろう。


でも、何がしたいんだろう、旅、とか?
でも、楽しめるのだろうか、死を前にした旅を。
やっぱり、「死までの時間」を充実させるよりも
「死の後の時間」の充実に望みを繋ぐ方が
救われるのかもしれない。


やはり、残されていく周りの人のことを考えるだろうか。
考えたとして、何が出来るのか?
周りの人たちに、ツライ思い出を残さずに
死んでいく、というのは
どういうことなんだろうか。


…「でも、ヤツも満足して死んで行けたよな」と
周りの人が思えれば、それが最高のことなのかもしれない。


例えば好きな人が出来て、
その人と付き合っていたとしたら。
自分が間もなく死んでしまう、ということを伝えるだろうか。
(この映画の主人公は、伝えないことを選ぶわけですが)


そこで伝えたとしましょう。
(望むらくは)彼女は悲しんで、
私が「幸せな気持ちで死んでいけるように」と
気遣うかもしれませんね。
そして、そこで私が幸せそうに死んでいったら、
それなりに彼女は「よかった」と思えるんでしょうか。


…うーん。答の出ないナゾばかりです。
折に触れ、考えてみます。